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若者がFを叫ぶ#03「まちづくりって、活性化だけじゃないよね?〜青二才が語るまちの終活〜」

若者がFを叫ぶ#03「まちづくりって、活性化だけじゃないよね?〜青二才が語るまちの終活〜」

 

#01、#02を見てくださった方々、ありがとうございます。

今日から、本題に入っていきます、タイトル通り〜青二才が語るまちの終活〜です。

それでは、ご覧ください!!


 
 
 

まず・・・・

まちの終活ってなに?という方へ。
めちゃめちゃ抽象的に言うと、ムラを閉じる悲しみではなく、ムラを紡いでいく希望を持ってムラの終末期に向き合う取り組みです。

高校時代、島根県の離島、海士町にセルフ島流しをした私ですが、地域活性化とか、地方創生とか、全然興味がありませんでした。学校で地域活性化の話を聞きますが、やっぱり興味は持ちませんでした。興味は持たない代わりに、違和感は感じました。

 
 
  
 
なんで活性化するの?
 
 
 
「住民さんが元気になるから」
 
 
 
なんでそんなにアピールするの?
 
 
 
「移住者が来たら、町が存続するから」
 
 
 
まぁ、確かに。
 
 
 
でも、活性化に乗り気じゃない地域、もうそんなに元気じゃない地域とかってどうなるの?
 
一緒に活性化するの?
 
・・・
 
それも何か違うよね。
 
人間、年老いてできることが少なくなっていきますよね、それは今の日本では何となく受け入れられているというか、「お年寄りだから席を譲ろう」とか、弱っていくことに寛容だと思うんです。町だって、構成員は人間なんだから、年もとるし、弱っていくものです。子孫が帰って来れば続く話、とは言っても、それも人間だから動きます。自然の摂理です。仮に、他の地域から人が来てくれたとしても、それはつまりどこかの地域から人が1人いなくなった、ってこと。
「人が来たくなる魅力を作ったから人が来てくれた」とも言えますが、魅力の発信ができる力が残っている地域はできますが、そんな力もない地域は難しい。これも自然の摂理です。
  
  
  
まちだって、弱っていくことが受け入れられてもいいんじゃないか?
  
  
  
社会の潮流が活性化、地方創生の一点張りになってしまうと、ちょっと苦しいよな、
  
という違和感。高校1年生の時に感じた違和感は放置されました。
  
それから月日は流れ、違和感と体験が紐づく機会がありました。
  
とある地区のおじいさんに言われたことです。
  
「大学出たら、俺の船をやるから、ここ(この地域)に帰ってこいよ。」
  
と。
  
嬉しいですけど、
  
「何で?」
  
って思いました。息子さんもいるのに。
  
よくよく話を聞いてみると、息子さんも本土に家を買って、島に帰るつもりがなく、周辺住民もみんなお年寄りで、このまま地域から人がいなくなっていくことに対する寂しさと、自分の代で集落から人がいなくなることに対する罪悪感、後ろめたさを感じている、とのことでした。
  
  
「何だかなぁ〜」
  
  
こっちまで悲しくなってきましたが、何より、おじいさんは何も悪くないのに罪悪感を感じていたり、後ろめたさを抱いていたりと。
  
このままだと、地域のせいで生き生きと死ねない人が出てくるんじゃないか、と。
 
「なんか違うよな、これ」
 
と。
 
いつもは思ってそれで終わりなんですけど、これに関しては不思議と感情的になっていたので色々勉強しました。
 
※勉強を始めるぞ、の画
 

 
勉強、と言っても色々な地域の終末期の事例とか、限界集落問題に関する論文とか本とか、片っぱしから読み漁りつつ、地域の人に「30年後ってどんなんですかね〜」とか、さりげなく色々聞いて住民さんの望む未来、成り行きの未来予測とかを聞いてまわってました。勉強の仕方がわからない、という欠陥が功を奏し、机上の空論にとらわれずに自論を確立できたのかな、と思います。
 
 
 
その中で、今思っていることをざっと。
 
 
 

① 活性化と同じIターン者の立場ではいけない。

活性化に成功した地域もいくつか観にいきました。そこで感じたのが地元住民さんとIターン者の足並みの不揃い。これは活性化だと綻びが中々出てこないと思うんです。なぜなら、外の人が入ってきて、実際に町を豊かにしてくれるから。いいことしてくれたら好きになります、大体。でもまちの終活でそれをやったら大変です。外から来た変な奴が、まちを終わらせに来るんです、とんでもないです。私はまちを終わらせたくないですが、終わりを考える必然性を感じ、今、その研究をしています。あくまで、活性化できるなら、活性化して欲しい、でも、それが難しかったり、もういいんだ、という所にはその寂しさに寄り添い、住民さんの望むこれからをちゃんと聞き、あくまで住民さん主体で、終活の取り組みができたらいいなと思います。なので、別に「終活」という言葉にこだわりはありません、「終わりを見越した一つのまちづくり」という立派な、そして積極的な政策だと思います。
Iターンとかいう言葉もなくなって、本当にその土地が好きな人、となればそれでいいのですが、Iターン本人も、地元住民さんにも「よそ者」という感覚が少しでも残っているなら、Iターン者は本気で、地元住民さんの望みを聞き、それを叶えるお手伝いをする必要があると思います。
コーズベースで語られる地域活性化(ex.地域に〜な課題があるから・・・)ですが、逆にニーズベース(ex.地域を・・・したい)で考えるのがまちの終活だと思います。この違いを理解した上で終活に関わらないと幸せな世界は生まれない、と確信しています。

② 人の終わりとまちの終わりの違い

人は死んだら、基本形は残りません。まちは人口0が終わりと仮定して、人口が0になろうと、その土地は無くなりません。厳密にいうと、まちの終わりは定義できなくて、もっというと定義する意味がなくて、まちは形として残るから終わらない、というロジックが今の所最強です。とにかく、人口0になっても土地として残るから、それはどうするの、という話です。終活の取り組みを行い、幸せな最期には、当然、人口0になった後の世界のビジョンが必要だと思います。「あなたたちが亡くなって、この村から人がいなくなった後はこうなっていますよ」や「この村はこんな風に後世に残りますよ」というものを何かしらのプロトタイプを用いて示すことができると、住民さんの安心感につながると思います。人口が0になった後のこと、それもコーズではなくニーズベースで考えられたらな、と今は漠然と思っています。

③ 問題が起こらないのが問題?

これが最大の矛盾で最大の問題だと思っています。限界集落の定義は65歳以上の高齢者の割合が50%を超えた地域とされています。限界集落の問題が謳われ始めたのは1980年代後半、バブル経済とも重なり、話題の注目度は低めではありましたが、問題提起があったことに変わりはありません。それから約30年が経過していますが、人口0になって消滅した例はあまり確認されません。なんだかんだ、細々と、生きていけるんですね。限界集落巡りの最中、「何か困ってる事とかありませんか?」と聞くと、大抵、「今はないねぇ〜」という返事が返ってきます。きっと、蓋をあけると、山はどうしよう、お墓はどうしよう、家はどうしよう、といった自分の終活と同じ具合で、地域にもあるはずなんです。それでも、ご本人が亡くなった時にはもうわからないし、すぐに自分が死ぬとも思っていない。こうやって考えると、困らないんです、だからどうしても「ムラ」とか「まち」という単位での終活をしようとは思えないんでしょう。人間が団結するときは得体の知れない恐怖に襲われたとき、大きな利益を得られるとき、と狩猟時代からの性質です。ムラから人がいなくなるタイミングは、当事者は誰も経験しないんです、リアリティーがない。だから「恐怖」にはまずならないでしょう。残されるは「大きな利益を得られるとき」です。そっちに持っていきたい。みんなでまちの終活をする事で、いい節目になった、住民同士の仲が深まった、集落のお葬式が素敵だった、まちのエンディングノートがいいものになった・・・などなど、取り組み自体はなんでもいいんですけど、住民さんの満足度の高い終活が1箇所でも、事例としてできれば「それいいねぇ」と、隣の芝は青いぞ?となって、広まると思うんですよね、短絡的かもしれませんが。案外、形として見え辛い問題だからこそ、問題にならない、だから何も進まない、という循環を「まちの終活っていいじゃん、俺らもやるか」という循環に変えていきます。
  
 
 
と、まぁ、書き出したらきりがないので今日はこんなところで。
 
考えれば考えるほど奥深くて、どこか神秘的な限界集落に魅せられてます。ただただ、人の温かさを感じやすい地域が好きなだけかもしれません、その後付けで、このまちの終活をしているのかもしれません、でも、それでもいいかな、って思ってます。自分の好きな環境に行って、そこに住む人を幸せに、豊かにすることを仕事にできたら、自分も本当に幸せだな、と思います。そうなれるように、いろんな学問領域から、限界集落を見ていきたいと思います。
 
最後に。
 
まちづくりって、活性化だけじゃないと思うんです。衰退するところがない方が不思議です。衰退とか、消滅とかってあんまり見たくないし、寂しいことだと思うんですけど、誰かが手を差し伸べた方が幸せだと思うんです。
 
死ぬ時、一人で死ぬよりも、誰かに看取られた方が幸せな感じしませんか?それと一緒です。まちを看取る、とか、まちの終活とか、まだまだ仕事にはなっていないですけど、今のところは行政の仕事なのかもしれないですけど、民間から何かを始めてもいいくらい、大事な仕事だと思うんです。今すぐ何ができる、とかは正直わかりません。それをこれから考えて、実践していきます。繰り返しになりますが、地域への関わり方は活性化だけじゃありません、時には終わりから逆算して考えることでいいアイデアが生まれるかもしれません。地域で何かやりたい方、既に何かを初めている方、悩んでいる方に響く文章になっていれば幸いです。
私は悩んではいませんが、わからない事を楽しんでいます。ぜひ、色々な方と地域について語りたいので、気が向いた方はメッセンジャーで話し掛けてください。
「こんな事例あるよ」「この地域の取り組みって終活じゃない?」などなど、ありましたら情報提供いただけると嬉しいです。
 
 
 
まぁ、こんなところです。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。
 

 
我が研究テーマに一片の悔いなし。
一見、暗いテーマかも知れませんが、上を向いています。
  
  
  
次回ウブマグ#04「ひなたびpart1 @檜原村」です!
高校時代から限界集落巡りをしていました、これからはその記録の一部をここで公開できたらなと思います!!
お楽しみに!!
  
Text by : HINATA MAEDA慶應義塾大学総合政策学部(SFC)1年
まちの終活だとか、死に際の生き甲斐だとか、はっきりしないものばかり追い求める青二才。